ふらり のらり くらり

徒然なるままに

幡野広志写真展「いただきます、ごちそうさま。」

幡野広志さんの写真展をみてきたので、そこから思ったことを。

【幡野広志のプロフィール】

自ら猟師となって、狩猟現場を撮り続けてきた写真家の幡野。昨年11月、34歳の若さで末期ガンを宣告され、今年の2月には鉄砲を処分して狩猟を辞めた。狩猟を通し、動物の死と対面してきた幡野は、いま自分の死と向き合いながら写真を撮り続けている。

【展示内容】

本写真展では、幡野が狩猟現場で撮った数千枚の写真のうち未発表作品を含む30点を選び出し展示する。そのひとつひとつの写真からは、狩猟が残虐行為ではなく、いのちをつなぐという自然の営みの一部であることが伝わってくる。「動物の死が生きている動物の食料につながるように、幡野が残す写真は生きる我々の糧になる」。是非、ご覧いただきたいと思います。

-ego Art & Entertainment Galleryサイトより

 

もともと乙嫁語りで家畜を捌く話であったり、イスラーム教圏の文化の一端であるイード・アル=アドハー(犠牲祭)の屠殺の行為であったりは、私にとっては何ら残虐な行為ではないと考えている。なんなら私たちが食べている肉や魚だって、誰かが代わりにやってくれているだけで殺された動物であるわけだし、人間が生きるために食べる、そういう営みのなかの1つに過ぎないと思っている。
かなり昔、叶恭子さんがTVで「食べるという行為はグロテスクなのです」と言っていたのだけど、なかなか本質をついた言葉だと思う。獲物を獲る、殺す、捌く、調理する、自らの口に入れて食べる、これらすべてをひっくるめてグロテスクだという言葉に思えるからだ。
 
グロテスクな中にも美しさというのはあって、私はそういう一見関係なさそうな、殺された動物の写真であったり血であったりに、ある種の美しさを見出している。死も生も恐ろしく、また畏ろしく、また美しいものである。
 
 
私は出産は割とスムーズに済んだほうだと思うが、それでも子供を産むという、一般的には喜ばしいとされる行為にも、絶えず死の姿があるように私には思えた。眩しいほどの産まれたての命、そこにわずかに光る死の姿。深淵を見る場所が違ったら、(子供は生き残るとしても)私はもしかしたら死んでいたのかもしれない、それぐらい、私にとって死は身近なものに見えた。
そう、出産によって、死は私の親戚みたいなものになった、ように思えた。たまに会う親戚。ふだんは生の強い(強すぎる)子供という存在が身近にいるから、あまり考えないんだけど、ふとした時に死のことを気に掛ける。この子が大きくなるにつれ、私は親の死に会うんですね、友人の死に会うかもしれないし、兄弟の死にも会うかもしれない。夫の死に会うかもしれない。そして私は、いずれあなたに会うのだね、と。
 
それなら私は、あなたに会うまで、やりたいことをやりたいように、生きよう。それまで、私がそちらの世界に行くのを待っててくれたら、嬉しいな。