ふらり のらり くらり

徒然なるままに

歌舞伎はじめ

新春花形歌舞伎 通し狂言「壽三升景清」をみました。新春らしい記事だなあ。

前から歌舞伎みにいきたいと思っていたので、願ったり叶ったり!!

 

まったく事前勉強もなにもせずに行った割には、内容が理解できたことが意外だったなあ。これは私の歴史好きと、イヤホンガイドのおかげだと思う。はじめて行く人はイヤホンガイドおすすめです。背景やら小話(?)やらを解説してくれるので。あと今回解説してくれた人、たとえを身近なものに引き付けてくれたのでとっつきやすかったです。学生時代に文化講習会みたいなのでみた歌舞伎もこういう解説付きだったら面白かったのにね。

 

あと急に魏の国(中国三国志)の時代に変わるときも、セットで日本じゃないなってのがすぐにわかるようになってた。これは最近のものがそうなのか、今回の取り組みの1つなのかはわからないけど、セットも含めて楽しめるってのは結構大事なのかもしれないと思った。

そして丹念に作りこまれた背景をみながら「あれって全部岩絵の具で描いてるのかな…だとしたらあの顔料(日本画で使う顔料のこと)どんだけ使ってるんだよ…どうやったらあんなにムラなく塗れるんだよ…」と素人っぽいことを考えてました。

「演出(人に見せる)」という観点でものを考えるのが好きな私は、イヤホンガイドで「前の舞台の幕を引いて、花道に立つ演者に視点を向けさせています」みたいな解説をかなり喜んで聞いてました。

限られたハコでどのように観客に見せるか。どのようにスポットライトを当てて、どこで幕を引き、どこで演者が登場し、どこで見得を切るのか。どのように演者が動けば、主役が映えてみえるのか…歌舞伎や能を見れば、日本においてどういう見せ方が有効だと考えられてきたのかがつかめる気がする。

 

色々書いてたら内容について書くの忘れてるし。。あらすじはこちらを参照ください。

 

まず市川海老蔵はとにかく人目を引く。見得を切ったとき、歩く姿、あれは生まれ持ったものなんだろうと思った。注目されたくなくても注目される人っているじゃないですか。いいことも悪いことも。あれですあれ。フツーの人間にとったら、なにしたって誰かが着目してるわけだから傍迷惑なことですけど、演技の世界においてはメリットになることですよね。

そして、演技をしてるときの動きが艶やか、且つ色気があるんですよね。古典的な艶やかさに加えて、現代的な男の色気も垣間見える。他の演者と違うなあと思ったのはその点だろうか…。これは主役だからそう見せているのか、もともと持っているものかはわからないのだけれども。。

 

そして中村獅童すごいなって思いました。もともと映画とかドラマの演技はのめり込み型だよなとは思ってたけど、コミカルな役もできて、二枚目な役もできる人。あんな人の目がいっぱいの舞台の上で、みんなが観ているなかで笑いを醸し出すことができるって、すごいなあ。笑いの雰囲気に持っていくことって、私たち凡人が思っている以上に難しいことのはずなのです。でも一言で、あるいは一挙一動で笑わせることもできる。

彼は、親しみやすさと演技をしたときの迫力(気迫?)が混在しているんじゃないかな。それが役柄でコロコロと変わっていて、お芝居のいい緩急になってる。脇役として、とってもすばらしい動きをしていたと思う。

 

内容については、一番重要なパートは第二場 都六波羅大牢の場なのかなと思った。重忠が景清に源氏/平氏の立場ではなく、男と男として話がしたいというくだりがあって、そこから景清の心が恨みから解放されていくんだよね。で、最終的には解脱する。

そのくだりをみていて、現代にも通用するよね~と思ったのです。●●人とか、男だとか女だとか、そういうのに囚われ続けるときがある。でも一人の人間としてみたとき、そんな区切りなんてどうってことないものなんだなって思った。

 

と、そんなこんなで充実したはじめての歌舞伎でしたとさ。今度は落語をききに行きたいです。