ふらり のらり くらり

徒然なるままに

紡ぐ、行為

夜娘がひどく寝ぐずるので、隣で添い寝して思い出す。

私も夜眠れなくなったとき、母の隣で寝たことがあったな。 不安で眠れないと言ったら、手をつないでいいよ、眠れなかったらどうしようと思うともっと眠れなくなるよ、と言われたな。 こんな小さい赤ちゃんの頃じゃなかったけど。

と夫に話したら、「みんなそうしていっているんだね」と、応えた。

そうだね。みんなそうして、大人になっていくんだ。

−親になったら親の気持ちがわかるようになるよ。

親の気持ちは今もわからないけど、みんなそれぞれ、色々な過程を経て大人になっていくんだ。そうしていずれ、死んでゆく。

ドッヂボール型コミュニケーション

ネットサーフィンしていたらこんな記事に辿り着いた。

「〜〜してくれたらお母さん嬉しいな」←お前の気持ちは関係ない - 世界の果ての育児と家事

私はどちらかというと振り幅がわからなくて、出産後は極端に滅私奉公のように接していたようだ。

夫に調子がおかしいと言われて、やっとそういう状態になっていると気づけたのだった。

0ヶ月目は慣れない育児、(今振り返ると)ホルモンバランスのせいで情緒不安定になり、かなり頻繁に泣いていて、出産前と後の変化についていけていなくて、折り合いをつけるので必死だった。

その後は慣れたのか(腹を括ったという方が正しいか)、まったく泣くことはなくなったのだけれども、私にとって泣く行為自体が、PCでいうならクリーンアップのような、蓄積した感情のバグやらを出すための、また次のステップに行くための、非常に大切なものなので、泣くということを忘れるのは明らかに悪いことなのだ。

だから「最近泣いていない」という事実に気づいた時はショックだった。 夜、睡眠時間を削って夫とつらつらと他愛のないことを話し、やっと心が復活した感じがしたのだった。 ここまで戻ってきたのがつい最近だ。

そしてふと思うことは、 私も人間だし、お子と一緒に成長中なんだ。だから、お子自身を尊重さえすれば、聖母のように振る舞う必要なんかなくて、弱音吐いたっていいし、イライラしたっていいんだな。 大切なのは、お互いの思いを、お互いを尊重しながらぶつけ合える(比喩でなく)ことなんじゃないか。

ぶつかり合うことは悪いことじゃない。むしろそこから色々生まれてきた。

私が夫と出会い気づいたことだ。

夫、お子とはドッヂボール型のコミュニケーションを目指していきたいな。ぶつけられたり受け止めたり、投げ返したりw

私はこう思うんだーって相手に投げながら、お互いの思いが整理されていく。整理されていくうちに、落としどころが見つかっていく。そんなんでいいんじゃないかな。

西の空は晴れ

今朝は娘が寝ている隙にふきんを煮洗いしていた。

仕事に復帰したら毎日があっという間に過ぎていくんだろう。 朝はなんとかご飯を食べて食べさせて保育園まで送り、電車で通勤して、帰り道は寄り道せずに保育園へ向かい、帰ったらお風呂だ夕飯だ、終わったら寝かせて洗濯だ。

そんな感じだろうか。

きっと家事が億劫になって、便利なものをたくさん使うだろう。 少しでも時短したいがために。 追われるように過ごす毎日。

だからこそ、腰を落ち着けて、敢えて不便な、古めかしいと思えるようなことをすると、なんだか心が落ち着くのかもしれない。

ふきんを煮洗いしたり、ジャムを作ったり、梅ジュースを作ったり、味噌を作ったり、パンを作ったり、絵を描いたり、縫い物をしたり。

1人の時間を取るのが難しければ、少しの間だけでいい、たまにそういう手仕事に時間を割きたいのだと、夫に伝えよう。そうしよう。

受け取って、また返そう。

昔、対話することで人と分かり合えると思っていた。

あれから時は過ぎ、結婚して子どもも産まれた今、人どうしが分かり合うのなんてできないんだと思うようになった。

終わらない紛争、生まれ続ける憎悪。

やっぱり平和なんて訪れないのかもな。

でもそれでも、人は交信を続ける。 なぜだろう。

まだ答えは出ない。

what I want to say is ...

1つ夢をみた。

 

子育てが一段落して、大学の授業に出ている。

 

手を挙げて質問するけれども、しっくりくる英語の表現ができずにもやもやしている(質問自体はできたようだ)。

 

今度は教授に指されたので話そうとすると、言葉に詰まってしまった。教授は優しく聞き返してくれるのだけれど、私は言葉を紡ぐことができずに泣いてしまった。

 

ああ、こんなんじゃあ復帰が思い遣られる。

 

そこで目が覚めた。

 

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How's it going?

 

<...>

 

Have a good day!

 

Ryan Teague: Block Boundaries

今回初めてミニマルミュージックと言われるジャンルのCDを買いました。

 

Block Boundaries by Ryan Teague

1トラックずつ、同じトーン、リズムを繰り返していく感じで、今まで私が買っていた音楽とは正反対のもの。今まで買っていたものは、どちらかというと1つ1つのトラックで作者の感情が吐露されているものが多かったので。

 

なんとなくジャケットに惹かれて手に取って聴いているうちに、私の中に、地球のような球体がぐるぐると回り、少しずつきらめく場所が変わったり、ところどころ色が変わったりしているイメージが浮かんできて、気が付いたら手にとっていました。

 

そう、聴いてるときはなんかトランスしてるみたいな状態だった。

スーフィズムみたいに、ぐるぐる回っているうちによくわからない領域に連れて行かれる(自分で意識して行ったのではない)感じ。

 

最近とみに、人間の根源的なものの1つとして宗教というか信仰というかそういうのがあり、そしてそれらは間違いなく哲学や数学や芸術(音楽、絵画、彫刻など)と深くかかわっている。と考えるようになりました。

どういうかたちでかかわっているの?という点に関してはまだ考え至りませんが…。

 

このCDは私の根源的なところ、具体的に言うとまだ私自身の未開の部分を刺激されているような気がして、興味を持ったんだと思います。

 

久々に記事を書いたら表現力が落ちてますね。やっぱり定期的にやらないとどんどんなまっていくなあ。

歌舞伎はじめ

新春花形歌舞伎 通し狂言「壽三升景清」をみました。新春らしい記事だなあ。

前から歌舞伎みにいきたいと思っていたので、願ったり叶ったり!!

 

まったく事前勉強もなにもせずに行った割には、内容が理解できたことが意外だったなあ。これは私の歴史好きと、イヤホンガイドのおかげだと思う。はじめて行く人はイヤホンガイドおすすめです。背景やら小話(?)やらを解説してくれるので。あと今回解説してくれた人、たとえを身近なものに引き付けてくれたのでとっつきやすかったです。学生時代に文化講習会みたいなのでみた歌舞伎もこういう解説付きだったら面白かったのにね。

 

あと急に魏の国(中国三国志)の時代に変わるときも、セットで日本じゃないなってのがすぐにわかるようになってた。これは最近のものがそうなのか、今回の取り組みの1つなのかはわからないけど、セットも含めて楽しめるってのは結構大事なのかもしれないと思った。

そして丹念に作りこまれた背景をみながら「あれって全部岩絵の具で描いてるのかな…だとしたらあの顔料(日本画で使う顔料のこと)どんだけ使ってるんだよ…どうやったらあんなにムラなく塗れるんだよ…」と素人っぽいことを考えてました。

「演出(人に見せる)」という観点でものを考えるのが好きな私は、イヤホンガイドで「前の舞台の幕を引いて、花道に立つ演者に視点を向けさせています」みたいな解説をかなり喜んで聞いてました。

限られたハコでどのように観客に見せるか。どのようにスポットライトを当てて、どこで幕を引き、どこで演者が登場し、どこで見得を切るのか。どのように演者が動けば、主役が映えてみえるのか…歌舞伎や能を見れば、日本においてどういう見せ方が有効だと考えられてきたのかがつかめる気がする。

 

色々書いてたら内容について書くの忘れてるし。。あらすじはこちらを参照ください。

 

まず市川海老蔵はとにかく人目を引く。見得を切ったとき、歩く姿、あれは生まれ持ったものなんだろうと思った。注目されたくなくても注目される人っているじゃないですか。いいことも悪いことも。あれですあれ。フツーの人間にとったら、なにしたって誰かが着目してるわけだから傍迷惑なことですけど、演技の世界においてはメリットになることですよね。

そして、演技をしてるときの動きが艶やか、且つ色気があるんですよね。古典的な艶やかさに加えて、現代的な男の色気も垣間見える。他の演者と違うなあと思ったのはその点だろうか…。これは主役だからそう見せているのか、もともと持っているものかはわからないのだけれども。。

 

そして中村獅童すごいなって思いました。もともと映画とかドラマの演技はのめり込み型だよなとは思ってたけど、コミカルな役もできて、二枚目な役もできる人。あんな人の目がいっぱいの舞台の上で、みんなが観ているなかで笑いを醸し出すことができるって、すごいなあ。笑いの雰囲気に持っていくことって、私たち凡人が思っている以上に難しいことのはずなのです。でも一言で、あるいは一挙一動で笑わせることもできる。

彼は、親しみやすさと演技をしたときの迫力(気迫?)が混在しているんじゃないかな。それが役柄でコロコロと変わっていて、お芝居のいい緩急になってる。脇役として、とってもすばらしい動きをしていたと思う。

 

内容については、一番重要なパートは第二場 都六波羅大牢の場なのかなと思った。重忠が景清に源氏/平氏の立場ではなく、男と男として話がしたいというくだりがあって、そこから景清の心が恨みから解放されていくんだよね。で、最終的には解脱する。

そのくだりをみていて、現代にも通用するよね~と思ったのです。●●人とか、男だとか女だとか、そういうのに囚われ続けるときがある。でも一人の人間としてみたとき、そんな区切りなんてどうってことないものなんだなって思った。

 

と、そんなこんなで充実したはじめての歌舞伎でしたとさ。今度は落語をききに行きたいです。