幡野広志写真展「いただきます、ごちそうさま。」
幡野広志さんの写真展をみてきたので、そこから思ったことを。
【幡野広志のプロフィール】
自ら猟師となって、狩猟現場を撮り続けてきた写真家の幡野。昨年11月、34歳の若さで末期ガンを宣告され、今年の2月には鉄砲を処分して狩猟を辞めた。狩猟を通し、動物の死と対面してきた幡野は、いま自分の死と向き合いながら写真を撮り続けている。
【展示内容】
本写真展では、幡野が狩猟現場で撮った数千枚の写真のうち未発表作品を含む30点を選び出し展示する。そのひとつひとつの写真からは、狩猟が残虐行為ではなく、いのちをつなぐという自然の営みの一部であることが伝わってくる。「動物の死が生きている動物の食料につながるように、幡野が残す写真は生きる我々の糧になる」。是非、ご覧いただきたいと思います。
もともと乙嫁語りで家畜を捌く話であったり、イスラーム教圏の文化の一端であるイード・アル=アドハー(犠牲祭)の屠殺の行為であったりは、私にとっては何ら残虐な行為ではないと考えている。なんなら私たちが食べている肉や魚だって、誰かが代わりにやってくれているだけで殺された動物であるわけだし、人間が生きるために食べる、そういう営みのなかの1つに過ぎないと思っている。
ニュー・シネマ・パラダイス@シネコヤ
ニュー・シネマ・パラダイス、それは愛の物語ー
鵠沼海岸のシネコヤにて、ニュー・シネマ・パラダイスをみてきた。
この映画は、愛についての映画だった。小さいころから映写室が好きだったトト。母親に怒られても、アルフレドにたしなめられても、やっぱり映写室に行くのをやめられなかった。火事でアルフレドが視力を失った後、トトが映写室で仕事することになった。
映写室はトトにとって、生きた場所にほかならない。視力を失ったアルフレドと話す場所、ガールフレンドと一緒に過ごした場所、離れたガールフレンドを想いながら映写機を回す場所。ほかの人々にとっても生活の一部であったのと同様、トトにとっても生活の一部だった。ただ、トトは映画館で生きていたという点が、ほかの人と異なるところだろうが…。
その後戦争があり再びふるさとへ帰ってきたトトに、アルフレドはローマへ行けと厳しい言葉でアドバイスする。その言葉に従いトトはふるさとを後にして、アルフレドの葬式に出るために30年ぶりにふるさとへ帰ってきたのだった。
ーここにいると、自分が世界の中心だと感じる。何もかも不変だと感じる。だがここを出て2年もすると、何もかも変わっている。頼りの糸が切れる。会いたい人もいなくなってしまう。一度村を出たら、長い年月帰るな。年月を経て帰郷すれば、友達や懐かしい土地に再会出来る。今のお前には無理だ!お前は私より盲目だ。
ー自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように。
30年ぶりに帰郷したトトを待っていたのは、懐かしい面々と、壊されてしまう映画館と、アルフレドの愛だった。
アルフレドの形見だと渡されたフィルムに映されていたのは、数々のキスシーン。それをみながら笑うトト。アルフレドはトトが笑う顔を想像しながら、このフィルムを作ったんだろう。この映画のお客さんは、トトただ1人だ。たった1人の人のために作った、最初で最後の映画だ。
人生は映画のようにはいかないかもしれない。この町にあるものは幻かもしれない。「でもやっぱり『お前も』、映画が好きだろう。」
あのフィルムは、アルフレドがトトにそう語りかけているような気がした。
この素晴らしい映画を、地元密着型の小さな、居心地のよい映画館でみられたことをうれしく思う。江ノ島に行く機会があれば、ぜひシネコヤを訪ねてみてほしい。こういう小さな映画館は、細く長く続いてほしいから、いろいろな人に行ってもらいたい。
苦手なものは苦手
短い時間ではあるが育児に専念した結果、自分が何者でもないことを実感した。
前々から自覚していたのだが、やはり自分は家事全般が苦手なようだ。
少し前まで覚えていたこと(ごみ捨てしなきゃ、洗剤がないから買い足さないと、等)が、別のことをしている間にすっぽり抜け落ちてしまう。対策としてはスマホにメモしたりしているのだが、子どもの相手をしていたとか電話がきたとか宅配便がきたとかでメモすること自体が後回しになると、メモする行為が消失することが結構ある。*1
そして多方向からやらなきゃいけないことが飛んできた場合は混乱してしまい、優先順位をつけるのが難しくなってしまう。これ仕事と育児を両立するうえで結構まずいんじゃないかと思っているけれど、何をすれば改善するのかまったくわからない。
こうしていると、やっぱり苦手な家事をどうスムーズに行うかを考えて取り組んでも、その改善幅は常人の3分の1ぐらいのものなんじゃないかという気がしてくる。でもやらなければ改善すらしないのだからやるしかないのだろう。
自分の程度を知っていれば、きっと対策も立てやすい、はずと思うしかない。まあ書いてないでやることやるか…。
*1:本当に消失と呼ぶのにふさわしいぐらい、完全に忘れ去っている。仕事のTo doは忘れないのに。
【感想】五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後
詳しいあらすじは他の人に任せるとして、感想だけ記しておこう。
1人の人の選択の積み重ねが、未来のその国を形作る。 そのときは必死だけど、振り返ってみればターニングポイントだったなんて。 歴史はそういう風に積み上げられていくのだろうか。 勿論、政治的な要素も多分に絡んでいるのだが、結局個々人の選択の結晶であることからは逃れようがない気もする。
そして、この本を読むと、言論の自由が保障されていることの切実さが伝わってくる。 言論の自由を奪われるというのはどういう状態なのか。 それは、体制を批判することと自分の命を天秤にかけられる状態なのだ。 当時の満州では、体制を批判すれば、拘束され、尋問され、拷問を受け死ぬこともある。 どこかに密告者がいないか怯え、自分の身を守るために身を隠す人もあれば、逮捕され、自分は死なずとも大切な友人を失う人もある。 その状況の過酷さが、被支配者側の生の言葉で綴られていた。 その状況を想像するだけで、喉に何かつかえたような気分になる。 自由は、現状を保つこともすれば、打破することもできる。 でもそれも、自由があってこそ成立しうることなのだ。
「衝突を恐れるな」とある建国大学出身者は言った。「知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ」
コミュニケーションは本質的に、傷つくものだ。 誰も傷つかない「やりとり」なんて、存在しない。 誰かの行為、言葉、態度、それらに傷ついた自分に気づき、はじめて前へ進めるんだ。 そして、そういうコミュニケーションをするためには、自由が不可欠なんだ。
久々に良い本に出会えたと思った。